ジャニーズの新機軸に挑んできた 嵐の大きな功績

ジャニーズの新機軸に挑んできた 嵐の大きな功績
粉川しの
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配信限定シングル「IN THE SUMMER」、そして世界的アーティストであるブルーノ・マーズが楽曲制作・プロデュースを手がけた話題の最新シングル「Whenever You Call」を立て続けにリリースした嵐。海外シーンともシンクロしたモダンなエレクトロ・チューンの「IN THE SUMMER」で新機軸を打ち出す一方で、「Whenever You Call」はブルーノ・マーズとの度重なるディスカッションと、本⼈によるボーカルディレクションを経て完成した嵐初の全英詞のミディアム・バラード。


出典元:YouTube(ARASHI)


今年いっぱいでの活動休止が予定されていることが信じられないほど、嵐は今この瞬間も前へ前へと進み続けている。ここではそんな嵐がジャニーズ・アイドルとしてチャレンジしてきた様々な「初モノ(コト)」について、改めて振り返ってみたい。


ジャニーズの先陣を切ったSNS、サブスク解禁

ジャニーズ・アイドルとしてこれまでいくつもの「初」をモノにしてきた嵐だが、とりわけ2019年の彼らがもたらした「初」は日本の音楽シーン全体に大きなインパクトをもたらすものになった。10月に公式YouTubeチャンネルの開設、定額制(サブスクリプション)ストリーミング配信を解禁したのを皮切りに、デビュー20周年の節目の日となった11月3日にはTwitter、Instagram、Facebook、Weibo、Tik TokのSNSアカウントも一斉に開設。そう、嵐は初めて全方位にデジタル対応したジャニーズ・アイドルとして、さらに最強のグループと化したのだ。


出典元:YouTube(ARASHI)


ジャニーズ事務所が所属アーティストのネット露出において長らく制限をかけていたことは有名だが、2020年代の幕開けを前にしてその旧価値観はそろそろ刷新される必然があったし、新時代の露払いとして嵐ほど相応しいグループはいなかっただろう。Twitterのタイムラインに嵐のつぶやきが流れてきた瞬間の驚きといい、InstagramのストーリーやTik Tokの動画でリアルタイムかつインタラクティブな彼らとの繋がりを実感できた喜びといい、まさにそれらは「山が動いた!」級の事件だった。嵐のサブスク解禁に至っては、そのインパクトはジャニーズとしての革命のみならず、J popシーンの産業構造自体の大転換点にすらなったと言っていい。また、彼らのアルバムや名曲の数々がサブスクによっていつでもどこでも聴ける環境が整ったことは、活動休止を控えた嵐の偉大なレガシーとしても色褪せない意味を持つことになるだろう。



日本からアジア、そして世界へ。J popの可能性を広げた嵐

嵐のインスタグラムやYouTubeの公式チャンネルを見ると、世界中のファンが様々な言語でコメントを書き込んでいることに気づくはず。彼女たち・彼らはどうやって嵐を知ったのか?その機会はけっして多かったとは言えないだろう。例えばK popのアーティストたちがSNSやサブスクを巧みに駆使してワールドワイドな成功を納めたのとは対照的に、嵐を筆頭とするジャニーズのグループは、それらのチャンネルを2019年まで活用せずにきたからだ。


出典元:YouTube(ARASHI)


しかしその一方で、嵐はジャニーズでいち早く海外を視野に入れて活動していたグループでもあった。彼らが初の海外進出を試みたのはSNSや音楽配信が今ほど普及していなかった2000年代のことで、2006年には台北とソウルでそれぞれコンサートを敢行。初めて韓国公演を行ったジャニーズのグループとなった。アジア・ツアーに先駆けてタイ、台湾、韓国をプライベート・ジェットで巡ったキャンペーン「JET STORM」は各地で熱狂的なファンの歓迎を受け、驚くメンバーの姿が『ARASHI AROUND ASIA Thailand-Taiwan-Korea』のドキュメンタリーにも記録されている。2008年には東京、台北、ソウル、上海をめぐる2度目のアジア・ツアーを開催し、各地で超満員のアリーナを沸かせた。そうした2000年代の確かな実績が土台としてあったからこそ、嵐のSNS、サブスク展開は解禁と同時に一気に世界に浸透できたのだろう。


出典元:YouTube(ARASHI)


2019年11月に行ったアジア4都市緊急記者会見を彼らが改めて「JET STORM」と題したのにも、10年以上にわたって途切れることがなかった嵐とアジアのファンの絆を感じさせるものだった。1999年、ハワイでのデビュー会見の場で「世界中に嵐を巻き起こしたい」と言ったのは相葉雅紀だったが、彼らは20年の活動の中で一歩ずつその夢をかたちにしていったのだ。


ジャニーズ初の本格ラップへの挑戦と、メッセージ性の高い歌詞の数々

出典元:YouTube(ARASHI)


嵐のデビュー曲「A.RA.SHI」にはグループのメインボーカルを務める大野智のソロ・パートに加え、櫻井翔のラップによるソロ・パートがあった。ジャニーズのシングル曲にラップのソロ・パートがあるのは異例のことだったが、同曲は作詞家の書いたリリックが櫻井に割り当てられた、あくまで「受け身」のラップだった。しかし彼はその後もラップのテクニックを磨く努力を続け(彼のメンターのひとりとなったのがm-floのVERBALだ)、自ら膨大な数のリリックを綴り、2002年のセカンド・アルバム『HERE WE GO!』では早くも自らラップ詞を手がけたナンバー(「Theme of ARASHI」「ALL or NOTHING Ver.1.02」)が収録され、ここからいわゆる“サクラップ”の歴史は始まった。


慶應大学経済学部を卒業した高学歴ジャニーズのはしりとして、また、ジャニーズ初のニュース・キャスターとして、ロジカルな思考と豊かな言語表現を得意としてきた櫻井の紡ぐラップ詞は、リリカルなもの(「サクラ咲ケ」「Step and Go」etc.)からラディカルな(「Cool & Soul」、「Re(mark)able」、 「Face Down」etc.)まで実に多様で、その全てが嵐のアイデンティティの核と直結したメッセージになっている。アイドルが借り物ではない自分たちの意思で未来を切り拓いていく様を体感できるのが嵐の凄さでもあるが、そこで重要な役割を果たしているのが彼らの「言霊」としてのサクラップだと言っていいだろう。

斬新なアイデアが満載!嵐が自ら作り上げる圧巻のコンサート

出典元:YouTube(ARASHI)

嵐のコンサートは、長らく日本で最も入手困難なチケットであり続けてきた。5大ドーム・ツアーや旧国立競技場での6年連続公演など、2008年以降のコンサート・ツアーはその規模も常に日本屈指で、中でも2018年から2019年にかけて開催された「ARASHI Anniversary Tour 5×20」は嵐史上最大のツアーとなり、実に230万人以上の観客動員を達成している。規模的にも内容的にも嵐のコンサートは日本が誇る最高峰のエンターテイメントであるわけだが、コンサートの演出のほぼ全てを、メンバーの松本潤を中心に嵐自らが手がけていることを知らない人も多いだろう。過去のライブDVDやNetflixで配信中の最新ドキュメンタリー「ARASHI's Diary -Voyage-」にも、コンサートのコンセプト作りから実際の設営の段階まで常に最前線でスタッフを率い、細部まで徹底的にこだわりながら(それこそ照明の位置ひとつに至るまで)巨大エンターテイメントを地道に作り上げていく松本の姿が記録されている。彼はスーパー・アイドルとしてステージに立つ時間よりも遥かに多くの時間を、ステージの裏方として過ごしているのだ。

出典元:YouTube(ARASHI)

そんな嵐のコンサートの中でもとりわけ画期的だったのが、「ジャニーズ・ムービング・ステージ」と呼ばれる可動式ステージの導入だった。アリーナの客席、オーディエンスの頭上をステージが通過するムービング・ステージは今でこそ他のグループも使っているジャニーズの定番装置となったが、元々は松本の発案で2005年の嵐のツアーで初めてお披露目されたステージだった。アクリル製でスケルトンのムービング・ステージは、アリーナの後方で埋もれていてもアイドルを間近かつ「真下」から観ることができる画期的なシステムで、それはステージでスポットライトを浴びるアイドルの目線と、ステージを俯瞰する裏方の職人の目線を兼ね備えた松本だからこそ発想できたシステムだったと言える。また、2009年の10周年記念ツアー「ARASHI Anniversary Tour 5×10」では、旧国立競技場の上空で200メートル(!)に及ぶ大フライングを敢行、5人がステージから聖火台まで飛んでいく様はまさに圧巻だった。

国民的スーパー・アイドルになった今も不滅のDIYスピリット

出典元:YouTube(Netflix Japan)

押しも押されぬ国民的スーパー・アイドルとして不動の地位を確立している嵐だが、彼らはデビューしてすぐに大ブレイクしたわけではなかった。むしろデビュー後の数年は人気が伸び悩み、(今では考えられないことだが)中規模のアリーナですら空席が出るツアーもあった。そんな時代に彼らは独立レーベルの「J Storm」を設立、言わば「ジャニーズ内インディーズ」としての道を模索していくことになった。しかしあの時期の彼らの経験、従来型のジャニーズのやり方ではうまくいかなかったという挫折こそが、後の嵐の強さを生んだのではないだろうか。関東ローカルの情報番組で地道に経験を積み、深夜枠のバラエティ番組ではアイドルらしからぬシュールな笑いを生み出した2000年代前半の嵐にはどこかオルタナティブな魅力があって、「ジャニーズはよく知らないけれど嵐は好き」という新たなファン層を開拓したのもこの時期のことだ。また、「J Storm」は映画製作にも進出、小規模アート系映画の『黄色い涙』を5人で撮る一方で、二宮和也はクリント・イーストウッド監督作『硫黄島からの手紙』のオーディションで重要な役を勝ち取りハリウッドに進出、その演技が世界的賞賛を集めるなど、ジャニーズ・アイドルとして前例のない実績を一つずつ積み重ね、徐々に嵐の個性は確立されていった。


出典元:YouTube(ARASHI)


そして2000年代後半、嵐はついに日本のエンタメ・シーンの頂点に立った。2000年代後半はCDが売れなくなり、地上波の歌番組は減り、ドラマの視聴率も取りづらくなった時代だった。そんなエンタメ逆境の時代だったからこそ、かつてアイドルの定型の中で葛藤し、独自の道を切り拓かざるを得なかった嵐は逆説的に強かったのではないか。嵐がジャニーズとして初めてSNSとサブスクを解禁したという冒頭の話も、彼らのこれまでの歩みを思えば必然の役回りだったと言えるだろう。嵐が更新したいくつもの「初」とは、アイドル/嵐とは何かを自問自答し、試行錯誤を重ねる中で彼らが勝ち取ってきたものの証なのだ。


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