今こそ90年代J-POP!(前編)~10年でヒット曲はどのように変わっていったのか~

今こそ90年代J-POP!(前編)~10年でヒット曲はどのように変わっていったのか~
藤田 太郎
藤田 太郎

ミリオンセラーといわれる、売上枚数が100万枚を超えるCDが連発していた1990年代。様々なムーブメントが入り交じり、チャートを賑わせていた10年間のヒット曲の変遷を、90年代を象徴する「8㎝シングル」を約4,500枚所有し、フジテレビ系列で放送されたクイズ番組『超逆境クイズバトル!! 99人の壁』に出場し、ジャンル「90年代J-POP」でグランドスラムを達成した、藤田太郎(イントロマエストロ/ラジオDJ)が、当時の時代背景とともに紹介していきます。今回が前編。1990年から94年のミリオンセラーを中心に振り返っていきます!


90年代の幕開けを飾った、サザンオールスターズ「真夏の果実」のイントロ

1990年9月8日、サザンオールスターズのバンドマスター、桑田佳祐が初監督を務めた映画『稲村ジェーン』が公開されました。1965年の鎌倉市稲村ヶ崎で、変わりゆく時代の中を生きる若者たちのひと夏を描いたこの映画は、観客動員数350万人を超える大ヒット。主題歌に起用された「真夏の果実」や、挿入歌の「希望の轍」が収録されたサウンドトラックも133万枚のミリオンセラーを記録しました。



「真夏の果実」の編曲を担当したのは、サザンオールスターズと小林武史。小林武史は、1982年に杏里のシングル「思いきりアメリカン」の作曲を手掛けたことがきっかけでプロとしての音楽活動を開始。これまでの歌謡曲のアレンジとは一線を画すエヴァーグリーンなサウンドは業界で話題となり、杏里のバンドサポートメンバーで、編曲を担当していた佐藤準の薦めで、80年代後半から多くのアーティストの編曲やプロデュースを担当。1987年にはソロデビューする桑田佳祐のプロジェクトに参加。桑田佳祐は著書「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん '84-'90」の中で、ファーストアルバム「keisuke kuwata」を小林武史と制作した時のエピソードをこう話しています。


“ソロアルバムの時はシェフ役が俺じゃなくて小林君。名シェフのもと、素材・桑田は実に心地よく楽しませてもらいましたね。あのシェフは若いくせにただの芸能的音楽界好きじゃないからね。いつも「次に何やろうかしら」を考えてる人だから。俺としては小林君を通して、現在日本のミュージシャンが何事を考えているかを垣間見る思いでしたね。”


その手腕が高く評価された小林武史は、1985年発売のアルバム『KAMAKURA』を最後に活動休止していたサザンオールスターズの再始動にもプロデューサーとして名を連らねます。


出典元:YouTube(サザンオールスターズ)


青山学院大学の音楽サークルメンバーで結成し、結成時の「ノリ」と絆で、70~80年を駆け抜けてきたサザンオールスターズは、90年代に小林武史という新しい才能と出会ったことで、新しいサウンドを手に入れたのです。その真骨頂が「真夏の果実」のイントロでした。椎名林檎、平井堅など、多くのミュージシャンのプロデュースを手掛ける亀田誠治は「真夏の果実」を聴いたときのエピソードを、自身のWEBメディア『亀田大学』でこう語っています。


“もうイントロ2秒で、2小節で号泣してしまったんですね。(中略)グロッケンの音しかないのに、そのメロディだけで泣けてしまった。「これは今まで僕が聴いてきたサザンと違う!!」と思って、CDシングルを買った。すると、そこで小林武史という名前を発見したのです。プロデューサーという人が入ることで「こんなに音が変わるのか……」と初めて気が付いたのです。”


1990年に、サザンオールスターズと小林武史が編曲を担当し『真夏の果実』がリリースされたことは、90年代以降のJ-POPの変遷を語る上で、非常に大きな意味があることだったと思います。2000年代にヒット曲を量産していく名プロデューサーも感動させたイントロは、「マイナス100度の太陽」のように、熱く冷静に90年代の幕開けを飾りました。



小林武史は「真夏の果実」から1年後の1991年、ドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌となった小泉今日子『あなたに会えてよかった』の作・編曲を担当し、ミリオンセラーを記録。80年代、アイドルとして活躍した小泉今日子はこの曲で、シンガーとして、女優として(『パパとなっちゃん』の主演は小泉今日子)さらにブレイク。そして小林武史は、1992年にデビューするあのバンドのプロデューサーとして一時代を作り上げますが、それは後編に。


トレンディドラマの主題歌は〈安心感〉と〈挑戦〉の融合からヒット曲が生まれた!

小泉今日子の他に、80年代にアイドルとして活躍していた中山美穂も、90年代に入ると女優として出演したドラマ作品が軒並み高視聴率を記録。「世界中の誰よりきっと」「ただ泣きたくなるの」など、演じた役のイメージにピッタリなドラマ主題歌を歌い、シングル売上では80年代のセールスを上回るヒット曲を数多く生み出しました。



80年代にバンド、オフコースで「さよなら」や「Yes-No」などのヒット曲を生み出した小田和正は、1991年、ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌に起用された「ラブ・ストーリーは突然に」がダブルミリオンを記録。



チェッカーズのボーカリストだった藤井フミヤは、チェッカーズ解散後の1993年にドラマ『あすなろ白書』の主題歌に起用された「TRUE LOVE」が同じくダブルミリオンを記録します。



都会に生きる男女の恋愛を、当時の流行を背景に描く1988年から1992年にかけてのバブル時代に制作されたこれらのドラマ作品は〈トレンディドラマ〉と呼ばれ、ターゲットである「F1層」(20歳から35歳であった新人類世代の女性)から圧倒的な支持を得ました。〈トレンディドラマ〉の主題歌は、憧れの対象であったアーティストが、ドラマを観ている私たちと同じ気持ちを歌ってくれている、という〈安心感〉と、脱アイドルやバンドからソロに転向など、アーティストたちが新しい〈挑戦〉として制作した楽曲が当時の流行にピッタリと合致したことが、ヒットした大きな要因だったと思います。先に紹介したサザンオールスターズも含め、90年代初期(ここは明確に1990年~93年)のJ-POPは、80年代の栄光にしがみつかず、前向きに新しい動きを模索し成功したミュージシャンがヒット曲を生み出した時代でした。


山田邦子と「やまかつ」が、ヒット曲とバラエティ番組のトレンドを変えた

80年代の栄光にしがみつかず、前向きに新しい動きを模索したミュージシャンたちが活躍する中、1985年からフジテレビ系列で水曜21時から放送された音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』が1989年9月に終了。『夜のヒットスタジオDELUXE』に代わり放送開始となったのは、山田邦子が司会を務めたバラエティ番組『JOCX-TV PRESENTS 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(通称『やまかつ』)。番組開始当初は、プロ野球中継が行われない期間に放送される〈つなぎ番組〉という位置づけで、あまり期待されていませんでしたが、山田邦子はこの番組で「オレたちひょうきん族」に出演し培われた、芸人としての確かな経験と実績をいかんなく発揮。物真似やコントなどをベースとした音楽を使った企画を多く取り入れ、最高視聴率20.4%を獲得する人気番組となります。



山田邦子のカラーを前面に押し出す形の番組作りのため、レギュラー出演者は、森口博子や森末慎二、高橋英樹、高岡早紀など、それまでバラエティ番組への出演経験が少なかったメンバーを積極的に起用。テーマソングも90年代に入ってからは、まだ実績のない若手アーティストを起用、そこからKANの「愛は勝つ」、大事MANブラザーズバンド「それが大事」がミリオンセラーを記録します。



筆者は30代の頃に70〜80年代の歌謡曲にハマり、当時の時代の雰囲気を教えてくれる諸先輩の話が面白くて週3で歌謡スナックに入り浸っていました。そこでは、90年代の「トレンディドラマ」の話は70〜80年代の歌謡曲と同じテンションで聞いてくれたのですが、「やまかつ」の話では、よく理解できないという反応になることを何度も経験しました。テレビが新しい世代へ変わっていく雰囲気を作り上げ、それが時代の感覚としてしっかりと受け入れられたことが『やまかつ』が人気番組となった要因だと思います。



お笑い芸人がMCを務めるバラエティ番組からミュージシャンがヒット曲を生み出すというパターンは、とんねるずの『とんねるずのみなさんのおかげです』に受け継がれ、子供番組のパロディとして1992年にリリースした「ガラガラヘビがやってくる」がミリオンセラーを記録します。その後、ダウンタウンが音楽番組「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」のMCを務め、ゲスト出演するミュージシャンとヒット曲を作り上げるフォーマットも登場しますが、それは後編に。


ビーイング系アーティストの台頭

1990年の年間CDシングルチャート1位は、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」。アニメ『ちびまる子ちゃん』のテーマ曲として164万枚のミリオンセラーを記録する大ヒットになりました。この「おどるポンポコリン」を手掛けたのは音楽制作会社ビーイング。ビーイングは、まだ名の知られていないアーティストでも、曲タイトルをサビの歌詞に登場させ、鼻歌で歌えるキャッチーなメロディとして聴かせる、目や耳に残りやすい楽曲を、アニメやドラマの主題歌、CMのタイアップとしてテレビで大量にオンエアする戦略で、ミリオンセラーを多く生み出しました。


出典元:YouTube(B’z)


現在も第一線で大活躍中の活躍中のB'zも、この戦略で三貴「カメリアダイヤモンド」CMソングとして1990年にリリースした「太陽のKomachi Angel」で初のシングルチャート1位を獲得。その後、カネボウ化粧品 '91夏のイメージソングに起用された「LADY NAVIGATION」で初のミリオンセラーとなり、この曲から13作品連続でシングルセールスが100万枚以上を記録するという快挙を達成します。


出典元:YouTube(Bz)


透明感のある歌声で、今でも愛され続けているボーカリスト坂井泉水のユニットZARDも、1992年リリースの「IN MY ARMS TONIGHT」が、森尾由美主演のドラマ『学校があぶない』の主題歌に起用され32万枚のヒット。1993年のシングル「負けないで」も松雪泰子主演のドラマ『白鳥麗子でございます!』の主題歌に起用され、ミリオンセラーを記録します。


出典元:YouTube(zardofficial)


販売戦略の素晴らしさはもちろんですが、ビーイングは、一流のミュージシャンがそれぞれ分業制で歌唱、作詞、作曲、編曲、コーラス、プロデュースを担当し、クオリティの高い音楽を制作していたことも忘れてはなりません。ビーイング系と呼ばれるアーティストがチャート上位を占めていた92年~94年当時、テレビで流れてきたサビのメロディと歌詞に心を奪われ、お小遣いをすべてビーイング系アーティストの8㎝シングルに使っていた中学生の私は、今、改めて当時のビーイング系アーティスト曲を聴き、イントロ一音目に響くドラムの反響音を作り上げるために拘ったサウンド作りや、コーラスの素晴らしさなど、当時、気が付かなかったことを発見し、2度目のビーイングブームを迎えています。B'zもZARDも2021年にサブスクリプションサービスで配信が解禁となりました。


今回紹介した90年代前半にヒットしたJ-POPをプレイリストにまとめました。ぜひ、KKBOXで懐かしさとともに、当時は気が付かなかった新しい発見に出会ってください。


藤田 太郎
藤田 太郎

最新の記事

    share to facebook share to facebook share to facebook share

    Ctrl + C でコピー