DATE BACK MUSIC|1993年3月のヒットチャートから平成の名曲を徹底解剖

DATE BACK MUSIC|1993年3月のヒットチャートから平成の名曲を徹底解剖
藤田 太郎
藤田 太郎

1980年代~1990年代のシングル月間ランキングから、ある年のある月をピックアップ!当時のセールスランキングを、令和の今、振り返ることで、あの頃がどんな時代だったかを当時の時代背景とともに深堀り、考察していきます。

第1回目は1993年3月のランキングをプレイバック。3月といえば寒い冬が終わり、いよいよ今年も春がやってくるという時期。2000年以降の観測で発表されている3月の平均気温は10.1℃ですが、1993年の3月は15日~17日にかけて強い寒気が日本列島に流入し、東京の最高気温が7℃。名古屋や大阪では雪が舞いました。4月以降も低温は続き、後に“平成の米騒動”と呼ばれる深刻な米不足に見舞われる事態に。また3月18日には新幹線「のぞみ」が山陽新幹線で運行開始。東京-博多間を最速5時間4分に短縮しました。2023年から遡ること30年前、そんな1993年3月の日本のヒットソングはどんなラインナップだったのか、月間ランキングTOP20を観ていきましょう。

TOP10中6曲が、音楽制作会社ビーイング所属のアーティスト!

1993年3月のランキングは、音楽制作会社ビーイング所属のアーティストを中心に回っていたといっても過言ではありません。3位のWANDSから、4位のZARD、5位のB'z、7位の大黒摩季、8位と10位のT-BOLANと、TOP10の半数を超える6曲がビーイング勢。

音楽制作会社ビーイングの特徴は、一流のミュージシャンがそれぞれ分業制で歌唱、作詞、作曲、編曲、コーラスを担当し、クオリティの高い音楽を制作していたことです。翌年(1994年)になると小室哲哉や小林武史がプロデュースを手掛ける、いわゆるTK時代が到来しプロデューサーがほぼオールインワンで担当するヒットの時代に突入していくのですが、その点と対比して考えると、93年のビーイング旋風がいかに凄いことだったかがわかります。

出典元:YouTube(Bz)

ビーイングは曲の構成も一貫して徹底していることは画期的であったように思えます。それは曲タイトルをサビ頭の歌詞に登場させ、そのフレーズを鼻歌ですぐに歌えるキャッチーなメロディとして聴かせ、すぐに覚えられるようにすること。1993年3月のTOP10にランクインした6曲も、すべてがサビ頭にタイトルが登場します。その徹底した手法に加え、サウンドはハードロックを中心とした造詣の深い音楽への探求心と愛が練り込まれていることも特筆すべきことです。それにも関わらず、アーティスト自身たちがメディアへの出演を極力控えるスタンスを貫いていたこともあり、あまり語られることがないまま30年の月日が経ちました。改めて楽曲の完成度の高さに、しっかりと注目すべき時が来たのではないでしょうか。

「負けないで」を“応援ソング”という括りだけで語ってはいけない

ということで、ランクインした中から、4位のZARD「負けないで」に注目します。この曲を聴いた、ZARDのボーカル坂井泉水はこう語ります。

何作かずっと恋愛の詞ばかり書いていたので、今度は違うタイプの詞も書きたいなと思っていた矢先、このテンポ感のある曲を聴いた時に、「応援ソングっぽいな」ってすぐにイメージが湧いてきて一気に書き上げました。

引用元:「Golden Best 〜15th Anniversary〜」ライナーノーツより

透明感と、はっきりとした発声が特徴的な坂井泉水のボーカル。そして“応援ソング”的な歌詞は、青春、アオハル的な雰囲気を連想することができるマッチングですが、注目したいのは“応援ソング”を作ろうと狙ったわけではなく、”応援ソング”っぽいなってすぐにイメージが湧いてきた“と発言している点です。アーティスト・坂井泉水を語る時にZARDのプロデュースを手掛けた長戸大幸や、現場ディレクターの寺尾広など制作に関わった多くが口を揃えて言うことは、坂井泉水の歌詞に非凡な才能があったこと。

出典元:YouTube(zardofficial)

実際に坂井泉水は「この曲にはこの言葉が合うな」と、ジグソーパズルのように言葉をはめていき、〈ZARDという物語の主人公=坂井泉水〉に何を歌わせようかを決めていくように歌詞を作っていたそうです。「負けないで」も曲から放たれていた空気が“応援ソング”だったから、坂井泉水はこの歌詞とタイトルを当てはめたと考える方が自然なのかもしれません。

ZARDの他の曲を聴きこむと、坂井泉水のキャリアの中で「負けないで」と同じような応援ソングがこんなにも少ないのかと驚きます。そして爽やかでまっすぐな“応援ソング”を書いた人と同一人物とは思えないほど、禁断の愛や深い哀愁を歌う曲が多く存在することに気づきます。そして、それらの曲も、各楽曲のサウンドに導かれたのだと納得してしまうのです。

語らないことから生まれる美学もありますが、坂井泉水という天才から生まれる言葉を、もっとたくさん聴いてみたかったと今でも思います。明るいポップロックで彩られたサウンドということや、“応援ソング”という括りだけで語ってはいけない至極のスタンダードナンバーである「負けないで」が1993年3月のチャートにランクインしていたのです。

トレンディブームが終わりを告げようとしていた時期のドラマ主題歌ヒット

TOP20のラインナップでもう一つピックアップしたいのが、1993年1月~3月期に放送されたテレビドラマの主題歌に起用された楽曲が多かったことです。20曲中10曲がこの期に放送されたドラマのタイアップソングでした。1988年から1992年にかけてのバブル時代に制作されたドラマ作品は、都会に生きる男女の恋愛を、当時の流行を背景に描く“トレンディドラマ”と呼ばれ、ターゲットである「F1層」(20歳から35歳であった新人類世代の女性)から圧倒的な支持を得ました。そのブームに終わりが見え始めたのが1993年。

前年(1992年)の春に、エコノミストの高尾義一が『日経公社債情報』で「このままでは戦後最大の不況となる」と悲観的な経済見通しを公表し、この見通しがきっかけで株価が急落。東証に上場されていた株式の時価総額は1989年末の611兆円から269兆円と半分以下に。フジテレビでトレンディドラマを多くプロデュースしていた大多亮が、1993年4月放送の月9ドラマ『ひとつ屋根の下』を手掛けた時のインタビューで、「恋愛というテーマだけでは満足して頂けない時代の空気を感じ、家族愛、兄弟愛といったトレンディ時代ではまずなかった要素をふんだんに取り入れました」と話すように、1993年は“憧れ”の対象となっていたオシャレな恋愛を描くトレンディドラマから、日々の生活の中で起こる出来事を、人間味あふれる雰囲気で描くリアリティな演出へと変わっていきました。

しっとりしたラブソングを歌う2人というイメージを払拭した「YAH YAH YAH」

1993年3月の月間ランキング1位は、脚本を三谷幸喜が手掛け、石黒賢演じる熱血漢の青年医師・石川玄と織田裕二演じる天才的なメス捌きを誇る司馬江太郎の対立と、シリアスな病院の派閥争いを描いたドラマ『振り返れば奴がいる』の主題歌に起用されたCHAGE&ASKA(現 CHAGE and ASKA)の「YAH YAH YAH」。CHAGE&ASKAのスタッフは、1991年にフジテレビの月9で放送されていたトレンディドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌に起用された「SAY YES」が282万枚のダブルミリオンを記録してから2年も経っていないのに、またドラマの主題歌を担当するのかと、このドラマ主題歌の起用に難色を示していました。

出典元:YouTube(CHAGE and ASKA Official Channel)

しかしASKAが「このパワフルでダイナミックな曲を歌うことで、“しっとりしたラブソングを歌う2人“という世間のイメージを払拭できる」とリリースを決行。その結果、「YAH YAH YAH」は241万枚というシングル2作目のダブルミリオンという大ヒットを記録しました。「今から一緒に これから一緒に 殴りに行こうか」というサビ前の歌詞で、拳を突き上げたくならない人を探す方が難しい、令和の時代になってもカラオケで盛り上がる鉄板の1曲です。

当初はシングルではなかった「ロード」は独自路線でヒットを記録

1993年3月の月間ランキング2位にランクインしたTHE 虎舞竜の「ロード」は、実は1992年にリリースしたシングル『こっぱみじんのRock'n Roll』のカップリングに収録された曲でした。バンドのファンだった女性から届いた手紙に書いてあった実話を元に書かれた歌詞の「何でもないようなことが幸せだったと思う」と、ハーモニカとピアノだけの切ないメロディが有線放送で流れると問い合わせが殺到。TBSで放送されたバラエティ番組『テレビ近未来研究所』のエンディングテーマというタイアップも決まり、満を持して「ロード」をメイン曲にしたシングルが1993年1月21日にリリースされました。

出典元:YouTube(高橋ジョージ&THE虎舞竜 公式 Channel)

リリース後、チャートをじわじわと昇っていき199万枚のヒットを記録。シングルチャート最高位は3位、TOP100ランクイン登場回数35週という、異例のロングヒットを続けた「ロード」は続編が制作され続け、2021年には女性シンガーのMay J.とデュエットした最新曲「ロード~㐧15章 ~一期一会 2人の物語~」がリリースされています。発売から30年経った今も、バラエティ番組『水曜日のダウンタウン』でフォーカスされるなど、普遍的な胸に突き刺さるフレーズと琴線に触れるメロディが今も根強い人気をキープしている曲です。

脱アイドルで、新しいスタイルのヒット曲を生み出した小泉今日子と工藤静香

出典元:YouTube(小泉今日子)

ドラマ主題歌に起用され、TOP20にランクインした小泉今日子と工藤静香にも注目します。小泉今日子は、1982年にシングル「私の16才」でアイドル歌手としてデビュー後、80年代に、松田聖子、中森明菜と一線を画す “天真爛漫で可愛くて、カッコイイアイドル”像を確立し、人気を不動のものに。音楽のセールスは、90年代に入り大きく伸び、1991年に自身がヒロインを務めたドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌に起用された「あなたに会えてよかった」でミリオンヒットを記録。私はこの曲がヒットした最大の理由として、小泉今日子がアイドルから、ドラマに寄り添った主題歌の作詞も手掛けられるシンガーへとスタイルを広げたことが最大の要因と考えています。月間ランキングの12位にランクインした「優しい雨」も本人がヒロインを務めたドラマ『愛するということ』の主題歌に起用され、作詞も担当したこの曲は95万枚のヒットを記録。その後も「My Sweet Home」、「月ひとしずく」と、90年代にドラマの出演と主題歌の作詞を手掛ける手法でヒットを連発。昨年2022年にデビュー40周年を迎えたキョンキョンの90年代の変化は、長い歴史の中でも、大きな意味があったのではないでしょうか。

出典元:YouTube(工藤静香 -PONY CANYON-)

11位にランクインの「慟哭」を歌った工藤静香も、昨年2022年にソロデビューから35年目を迎えた周年アーティストです。「慟哭」の作詞は中島みゆき、作曲と編曲は後藤次利が手掛けました。1988年にリリースしたシングル「FU-JI-TSU」を皮切りに、細やかな恋愛の心情を表現するのが難しい中島みゆきの歌詞と、唸るベースに乗って歌うのが難しい後藤次利のダイナミックなロックサウンドに早い時期から触れられたことは、工藤静香がグループアイドルからソロアイドルへ、そしてシンガーとして成長できた大きな要因だったのではないでしょうか。2022年末の『NHK紅白歌合戦』に出場し、力強く伸びやかな唯一無二のグルーヴが健在の歌唱力を見せつけました。小泉今日子や工藤静香が名を連ねる30年前のヒットチャートの素晴らしさを堪能していただけたらうれしいです。

いかがだったでしょうか。このように過去の月間ランキングをピックアップして深堀していきます。聴きなじみのある懐かしい曲に、今だからこそ味わえるもう一つの切り口を加えてプレイリストを楽しんでください。


オススメプレイリスト


藤田 太郎
藤田 太郎

Latest articles

    share to facebook share to facebook share to facebook share

    Press Ctrl + C copy