エルヴィス・プレスリーの始まりと終わりの物語〜音楽に愛されたキング・オブ・ロックンロール 〜

エルヴィス・プレスリーの始まりと終わりの物語〜音楽に愛されたキング・オブ・ロックンロール 〜
山本雅美
山本雅美

世界史上最も売れたソロアーティスト、エルヴィス・プレスリー(以下、エルヴィス)。彼がいなければ、ビートルズも、クイーンも存在しなかった。 そんなキャッチコピーに惹かれて観劇した映画『エルヴィス』。プレスリーという名前は誰もが知るところだが、ビートルズやストーンズ以降のロックアーティストに比べると、それ以前を生きたプレスリーを深く知ろうとすることはあまり無かったように思う。

出典元:YouTube(ワーナーブラザース公式チャンネル)

エルヴィスは黒人に対する人種差別が当たり前のようにあった時代、ミシシッピ州の黒人居住区にある貧しい白人専用住宅で育った。映画の中でも描かれているが、エルヴィスのコンサート会場が白人エリアと黒人エリアに明確に分けられていたそんな時代だ。いまとなっては信じられないが、黒人が聴く音楽は「公序良俗に害するもの」としてオミットもされていた。そんな時代にエルヴィスは、黒人カルチャーの中でブルースやR&Bを浴びるように聴いて育っていく。そんなバックグラウンドを持ち、黒人音楽であるブルースやR&Bと白人音楽であるカントリー&ウエスタンを融合し、それまでになかった斬新な音楽スタイル・ロックンロールを生み出していく。エルヴィスの中では肌の色の違いにこだわりなどなかった。あったのは自分の音楽スタイルで歌うのだという強い意志と、それを表現する圧倒的な才能とパッションだ。

出典元:YouTube(Elvis Presley)
エルヴィスが最初にレコーディングし「サン・レコード」からリリースされた「That's All Right」。68年の時を経て最近オフィシャルのミュージックビデオが公開された。

また、それまで見たこともなかった扇情的な腰の動きをさせながらオーディエンスを煽っていく姿に、女性たちは歓喜し熱狂した。興奮したファンが下着を脱ぎステージに投げ入れる現象も巻き起こした。そんな熱狂が瞬く間に全米へ広がるにつれ、センセーショナルすぎるロックンロールとダンスは社会の大きな反発も生んでいく。また白人が黒人の音楽を歌っているというだけで、テレビ局や保守的な団体、政治家などから激しい批判を受けたり、エルヴィスのパフォーマンスが猥褻であるとしてPTAや警察から公衆の前で歌うことを禁止されたりもした。

出典元:YouTube(ワーナーブラザース公式チャンネル)
オースティン・バトラー演じるプレスリーのフルライブシーン。オーディエンスの興奮度が尋常ではない。映画の前半でのハイライト。

しかしエルヴィスは自分の信念を変えず、自分だけにしかできないロックンロールを追求していく。エルヴィスは〈キング・オブ・ロックンロール〉と称されているが、そう言われるようになった背景をこれまで深く知る機会はなかった。映画『エルヴィス』では、その経緯が見応えたっぷりに描かれている。またエルヴィスから莫大な金を搾取したと言われる敏腕プロモーターのトム・パーカー大佐の暗躍ストーリーや、プレスリーの家族への愛、そして心身ともに困憊していく姿なども知ることができるドキュメント的な要素も大きい。2時間39分という大作だが、エルヴィスの名曲とともに描かれているので時間をまったく感じさせないものだった。今回のコラムでは映画で取り上げていなかった曲も含め、エルヴィスが登場した頃と亡くなる直前の作品を中心に紹介していこう。


エルヴィスを〈キング・オブ・ロックンロール〉と言わしめたこの曲

「ハートブレイク・ホテル(原題:Heartbreak Hotel)」 (1956)

「ハートブレイク・ホテル」の大ヒットを受けリリースされた1stアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』。ジャケットは、ザ・クラッシュの『LONDON CALLING』のモチーフにもなっている。「ハートブレイク・ホテル」は1999 年にリリースされたアップグレイド盤に追加収録。

「ハートブレイク・ホテル」は、全米での活動を視野に、サン・レコードからRCAレーベルへ移籍した第1弾シングル。カントリーでもブルースでもなく、ジャズでもない独特なサウンドは、当時のヒットシングルとはまるで違うものだった。RCAレーベルのスタッフはそんな「ハートブレイク・ホテル」がヒットするか疑心暗鬼だったようだが、エルヴィスは大きな手応えを感じていた。人気テレビ番組『Stage Show』に出演して、この曲を演奏すると全米に大反響を巻き起こす。その後のコンサートツアーで各地の女性ファンは歓喜狂乱し、興奮のあまりに履いていた下着をステージに投げ込む現象さえ生まれ始めていた。

出典元:YouTube(John56517)
「ハートブレイク・ホテル」の当時の貴重な映像。映画で目の当たりにした興奮は実在していた。

そんなエルヴィスに対して大人たちは害悪視し始めていた。その批判は凄まじく、各地でエルヴィスそっくりの人形が絞首刑にされたり、火あぶりにされる事件も起きていた。また評論家たちはエルヴィスのことを下品でいやらしい踊りの名人と評し、ニューヨーク・ジャーナルには「まるで原始人のステップを見ているようだ」「白人の子供を黒人にする陰謀の張本人」などと酷評していた。しかし「ハートブレイク・ホテル」はBillboardチャートで7週間に渡って1位を獲得し、同年の年間シングル・チャートでも1位となる200万枚の大ヒットとなる。この曲でエルヴィスは全米での人気を確立し、全米トップ100に36曲をランクインさせるなどエルヴィスはアメリカの寵児になっていく。

RCA New York Studioで撮影された宣伝用の写真(1955.12.1)

いままで見たことも聴いたこともない「ハートブレイク・ホテル」は、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンなど、その後の偉大な多くのロックアーティストにとてつもない大きな影響を与えた。特にビートルズ、とりわけジョン・レノンにとって大きな衝撃を与えたナンバーになったようだ。後にジョンは次のように語っている。

(15歳で初めて聴いた)あれ以降世界が変わってしまったんだ。
エルヴィスは僕の人生を変えてしまった。
僕はエルヴィスを聴くまで、本当の意味で誰からも影響を受けたことはなかった。
エルヴィスがいなかったらビートルズは誕生していなかっただろう


「ハウンド・ドッグ(原題:Hound Dog)」(1956)

1956年7月にリリースした「ハウンド・ドッグ」。3ヶ月後には2ndアルバム『エルヴィス』をリリースした。「ハウンド・ドッグ」は1999年にリリースされた『エルヴィス』アップグレイド盤に追加収録。

エルヴィスの代表曲のひとつ「ハウンド・ドッグ」は、もともとは1952年にビッグ・ママ・ソーントンが歌い全米で黒人R&Bソングとして大ヒットした曲で、さまざまなカヴァーがリリースされている。エルヴィスは1955年にフレディ・ベル&ザ・ベルボーイがカヴァーしたものをライブ等で自分流にアレンジしながら歌い、様々なテイクをレコーディングする過程でどんどん形を変化させていった。最後はほとんど原曲からかけ離れたものとなり、わずかに「ハウンド・ドッグ」という一節のみが原曲のなごりを残す程度になっていたようだ。

黒人カルチャーを代表する歌で、エルヴィスが「上流だっていうけれど何も出来ないじゃないか」というオリジナルな歌詞をつけて歌うことに、白人たちからは自分たちへの敵意を表した歌と受け止められていた。また若者の犯罪や非行、人種問題が絡むトラブルなどすべてがエルヴィスに原因があるという風潮をさらに増長させていった曲でもある。テキサス州でのコンサートでは「ハウンド・ドッグ」を歌うことが禁止される事態も起きていた。その一方で「ハウンド・ドッグ」はBillboardチャートで11週連続1位を記録。留まることを知らない空前の人気となっていく。


「トラブル(原題:Trouble)」 (1957)

エルヴィスの人気に比例して、ますますエルヴィス・バッシングも全米に広がっていく。それを象徴する出来事が映画『エルヴィス』の中でも描かれている。熱狂と反発の渦中にあるエルヴィスが、故郷メンフィスのラスウッド・パークスタジアムで行ったコンサート・シーンだ。ステージに上がる前にエルヴィスは逮捕状を持った警察官に「指一本動かせば逮捕だ」と、歌うこと以外の一切のパフォーマンスを禁じられてしまう。しかしエルヴィスは「誰に何を言われようと、自分の心に従え」と反抗の姿勢を見せる。そしてオーディエンスに向かい「本物のエルヴィスを見せてやる」と叫び、自ら選んだ曲が「トラブル」だった。エルヴィスがパフォーマンスを始めると、会場に集まった観客の興奮はいっきに最高潮になっていく最高のシーンだ。

出典元:YouTube(ワーナーブラザース公式チャンネル)

自分のスタイルで歌うことを貫き続けるエルヴィスに、さらに若者たちからの支持は拡大していく。エルヴィスが若者と保守的な大人といった社会を二分させるアイコンとなっていたことを決定づける出来事でもあった。


「監獄ロック (原題:Jailhouse Rock)」 (1957)

出典元:YouTube(Turner Classic Movies)

「監獄ロック」 は、エルヴィス3作目の主演映画『監獄ロック』の主題歌として1957年9月にリリースされたシングル曲。ポップス、カントリー、R&Bの各チャートで1位となる三冠王を達成したエルヴィスの代表的なロックンロール・ナンバーとなっている。エレキ・ベースの登場で、エルヴィスの音楽にもエイト・ビートを取り込んだ最初のナンバーにもなっている。映画のあらすじは、あるトラブルで刑務所に入ってしまった主人公・ヴィンス・エヴァレット(エルヴィス)が同房のカントリー歌手から歌とギターを習い、出所後に音楽活動を始め人気歌手になっていくというストーリー。エルヴィスが生涯で出演した33作品の中でもよく知られている映画ではないだろうか。「監獄ロック」はアルバムとしては、当時シングル曲を集めた『エルヴィスのゴールデン・レコード第1集』に収録されているほか、ライヴ・ヴァージョンは『'68 カムバック・スペシャル』『オン・ステージ (レガシー・エディション) 』『エルヴィス・ライヴ・イン・メンフィス 』など様々なヴァージョンを聴くことができる。


エルヴィス至極のラブソング

「好きにならずにいられない(原題:Can't Help Falling In Love)」(1961)

「好きにならずにいられない」は、エルヴィス8作目の主演映画『ブルー・ハワイ』の劇中歌のひとつとして作られ、プレスリー作品の中でも最も代表的なバラードナンバーとして知られている。もともとはフランスの作曲家・ジャン・ポール・マルティーニの「愛の喜び」というクラシカルな歌曲がベースとなっていて、甘いメロディと歌詞はラブソングのスタンダード・ナンバーとして現在も歌い継がれている曲だ。1970年代のコンサートではラストナンバーとして歌われることが多かったことから、多くの人に印象深く残る曲となっているのだろう。Billboardチャートは2位止まりだったものの、イージー・リスニング・チャートでは1位を獲得(Billboardには本当にたくさんのランキングが存在している)。大人たちから疎まれていた頃を考えると、エルヴィスの音楽は変化を見せ始めていた。

映画『エルヴィス』では、生涯を通してただ一人婚姻関係にあり、離婚後も精神的に頼りにし続けたプリシラとパーティー会場で出会うロマンティックなシーンで使用されているのが印象的だ。しかし2人の結婚生活は6年で終焉を迎えることになる。そして離婚からわずか数週間後、エルヴィスは「Always on My Mind」 (1973) をレコーディングしている。真偽はあるものの、この曲はプリシラのために書かれたエモーショナルなバラードで、結婚生活における彼の後悔が描かれているらしい。ちなみに映画の中ではエルヴィスがプリシラと最後の別れをするときにエルヴィスの口が「I Will Always Love You」と言っている演出があった。この曲もまたエルヴィス渾身のラブソングなのは間違いない。


どん底から大復活劇を遂げたエルヴィス第2の黄金期

「サスピシャス・マインド(原題:Suspicious Minds)」(1969)

「好きにならずにいられない」の翌年の1962年2月にリリースした「グッド・ラック・チャーム」でBillboardチャート1位を獲得後、実に7年振りに全米1位に輝いたのが1969年8月にリリースされた「サスピシャス・マインド」だ。この間に量産された主演映画や、ビートルズなど新しい音楽スタイルの登場が影響し、メインストリームでのエルヴィスは絶大な力を持つロックンロール界のパイオニアではなくなりつつあった。また公のメディアにも登場せず、エルヴィスは忘れかけられた存在になっていた。そんな中で、何故エルヴィスは劇的な復活を遂げたのか?

『'68カムバック・スペシャル』で観客はもちろん、全米を釘付けにしたステージ。

エルヴィスがテレビプロデューサーのスティーヴ・ビンダーと音楽プロデューサー・ボーンズ・ハウとタッグを組んで出演したNBCテレビ『'68カムバック・スペシャル』が1968年12月3日に放送されたことが大きく影響する。中央の小さなステージを少数の観客が取り囲み、エルヴィスとオリジナルのバンド・メンバーたちのセッションは多くの人たちを釘付けにした。約7年ぶりとなるテレビ出演は瞬間視聴率が70%、平均視聴率も42%という驚異的な記録を残し、エルヴィスも大きな手応えを感じていた。

出典元:YouTube(Elvis Presley)
放送から50周年を記念し『'68カムバック・スペシャル~50周年記念盤』がリリースされている。

音楽に再び目覚めたエルヴィスは、故郷であるメンフィスにあるアメリカンサウンド・スタジオでオリジナルアルバムの制作をスタートさせる。アルバム制作には地元のミュージシャンたちも加わりセッションする形で行われ、そこで生まれたのが「サスピシャス・マインド」だったのだ。

『'68カムバック・スペシャル』と共にエルヴィスの復活を決定付けた重要なアルバムとして評価が高い。「サスピシャス・マインド」は、のちにアップグレイド・ヴァージョン版でボーナストラックとして収録された。

エルヴィスが原点に立ち返って作られたこの曲が、エルヴィス・プレスリーの新たなる幕をあげるエポックメイキングなものであったことは間違いない。そしてエルヴィスはラスベガスにオープンしたインターナショナル・ホテルの大規模な会場を活動拠点とし、コンサート活動を再開する。真骨頂だったロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダード・ナンバー等を取り入れ歌うことも多くなっていく。またバックもコーラスグループやオーケストラまで加わりエンタテインメント感が全面に押し出されたコンサートスタイルに大きく変化、お馴染みの派手な衣装のエルヴィスもこの頃から見られるようになる。

出典元:YouTube(ワーナーブラザース公式チャンネル)

「サスピシャス・マインド」は映画の中でオープニングやエンドロールなど印象深いシーンで使われている。そして映画のハイライトにもなるのが、ラスベガスのホテルで開催されたコンサート・シーン。エルヴィスがステージ上からパーカー大佐とホテルオーナーに感謝のスピーチをした後に「サスピシャス・マインド」を歌うのだが、その最中にパーカー大佐とホテルオーナーの間ではとんでもない密約が交わされていた(このあたりは、是非映画でご覧あれ)。エルヴィスの復活劇の中での “光と影“。そんな場面で歌われる「サスピシャス・マインド」がなんとも切なく聴こえてくる。


「バーニング・ラヴ(原題:Burning Love)」(1972)

Billboardチャート2位にランクインした「バーニング・ラヴ」は、1970年代のエルヴィスがリリースした楽曲で一番のヒット曲となった。そして、エルヴィスにとって生前最後のトップ10入りした楽曲。この時期、地味めのシングル曲が続いていたエルヴィスだが、「バーニング・ラヴ」はエルヴィスの全盛期を彷彿させる痛快なロックンロール・ナンバーとなっている。オリジナルのシングル・ヴァージョンは数々のベスト盤などに収録されているが、1973年2月リリースの『エルヴィス・イン・ハワイ』に収録されているライヴ・ヴァージョンが圧巻。

出典元:YouTube(Elvis Presley)

『エルヴィス・イン・ハワイ』は、1973年1月14日にホノルル・インターナショナル・センターで行われたコンサート『アロハ・フロム・ハワイ』のライブアルバムで、コンサートのわずか1週間後に発売された。このコンサートは世界約38カ国に衛生同時配信され、その視聴者数は10億人以上とも言われている空前絶後なスケールだ。これには理由がある。当時エルヴィスはワールドツアーを熱望していたが、パーカー大佐はこれに反対。その代わりとしてこの前代未聞のコンサート企画が生まれたようだ。また、このコンサートは現地時間午前0時30分からの深夜の時間からスタートとなっているが、これは日本マーケットを意識したもので、日本のゴールデンタイムの午後7時に合わせるというパーカー大佐の思惑もあったようだ。

さらに、もうひとつの「バーニング・ラヴ」について紹介しよう。新録されたロイヤル・フィルハーモニーの演奏をバックに、エルヴィスのヴォーカル・パフォーマンスがフィーチャーされたアルバム『エルヴィス・プレスリー ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』が2015年にリリースされているが、その1曲目を飾っているのが「バーニング・ラヴ」だ。この時空超えた夢の共演作で披露された流麗なストリングスが疾走する壮大な「バーニング・ラヴ」。メンフィス時代の必要最低限のアレンジの楽曲と聴き比べれば、エルヴィスの音楽人生がフラッシュバックし深く胸に沁みてくるのだ。ちなみにこのアルバムは、全英アルバムチャート初登場1位を記録し、世界で150万枚以上を売り上げ、今なお世界中のファンを魅了しつづけていることを物語っている。


42歳で生涯を閉じたエルヴィスの最後の音楽

「浮気はやめなよ(原題:He’ll Have to Go)」(1977)

1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅で倒れているところを発見され、病院に運ばれるも42歳の若さでエルヴィスは没した。この頃のエルヴィスはさまざまなプレッシャーや、精神的・肉体的な疲弊に常にさらされ、次から次へとより多くの療養を必要としていたようだ。死亡の原因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表されている。エルヴィスの死の直前、1977年7月にリリースされたのが『ムーディー・ブルー』。エルヴィスにとって最後のスタジオレコーディング・アルバムで、1976年10月31日にレコーディングされた「浮気はやめなよ」のヴォーカル録りが、エルヴィスの最後のスタジオレコーディング曲とされている。

そしてエルヴィスは1977年6月から生涯最後のコンサート・ツアーを行った。この時のステージの模様は、エルヴィス死の6週前の壮絶なコンサートの記録として、『エルヴィス・イン・コンサート′77(原題:Elvis in Concert) 』で聴くことができる。映画『エルヴィス』を観た後に、このライブアルバムを聴くと、まるで45年前のコンサート会場に自分がいるかのような高揚感を味わうことができると同時に、エルヴィスの渾身のパフォーマンスで、彼が残した名曲の数々を確認することができるはずだ。


「マイ・ウェイ(原題:My Way)」(1977)

「マイ・ウェイ」はフランク・シナトラのカバーソングだが、エルヴィスは1970年代半ばのコンサートから好んで歌うようになり、『エルヴィス・イン・コンサート′77』でも披露している。その「マイ・ウェイ」で、プレスリーはこう熱唱している。

俺は目にする 最後の幕が降りるのを

エルヴィスの直接の死因は心不全だが、実は全身に転移した末期のガンを患っていたということが近年明らかになっている。ひょっとしてエルヴィスは自分に死が迫っていることを感じていたのではないだろうか?
このコンサートツアーが彼にとって最後になることを覚悟していたのではなかったのか?

映画『エルヴィス』では、このことに触れていなかったが、そんなことを想像しながら聴く『エルヴィス・イン・コンサート′77』は胸に迫るものがある。生涯を閉じる直前のエルヴィスの本物のエネルギーとバイタリティを感じて欲しい。

エルヴィスは亡くなる直前まで自宅でピアノを弾きながら、周りにいた人たちに歌を聴かせていたそうだ。それは2曲のゴスペルソングと「Blue Eyes Crying In The Rain」。映画『エルヴィス』を観るとエルヴィス・プレスリーの音楽を深く知りたくなる。このコラムをきっかけにさらにいろんなエルヴィスを深堀りしてもらえれば幸いだ。



Information

エルヴィスのオリジナル曲を聴いたら、是非映画『エルヴィス』(原題 :ELVIS)のオリジナル・サウンドトラックもチェック。「ハウンド・ドッグ」をリイマジネーションした、ドージャ・キャット「ヴェガス」をはじめ、プレスリー本人の歌唱をサンプリングした楽曲など、物語を彩るトラックが多数収録されている。個人的にはイタリアの注目バンド・ Måneskin の歌う「If I Can Dream」がイチオシ。


山本雅美
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